|
夏休みも残り僅かとなったある日、紫乃が約束の時間に合わせて絵梨子の家を訪ねたところ、珍しくアパートの入口で絵梨子ではない人と鉢合わせた。紫乃のほんの数メートル先に階段を上り、2階の廊下を真っ直ぐに歩いていく。最初は同じ階に住む人かなとも思ったが、手元に下げているのが見えた紙袋が街の大型ファンシーグッズ店のものであることに気づいたとき、ああ、と紫乃はすぐ直感した。 案の定その人は迷うことなく絵梨子の部屋を目指し、玄関チャイムを鳴らした。すぐに内側からは小走りする音が聞こえ、絵梨子が機嫌の良さそうな返事とともに扉を開いた。 「葵!? どうしたの? なんでいきなり」 「なんで、って。ここのところあんまり顔見てなかったから何となく会いたくなって。絵梨子こそ、どうしたの? 確認なしに扉開くなんて、無用心すぎない?」 「それは、その。ちょうど人と待ち合わせをしていたものだから」 あ、とそこで後方に紫乃の姿を見つけた絵梨子が声を上げると、追うように「あおい」と呼ばれた人も紫乃の方を振り返って見た。幸か不幸か、二階の廊下は階段を上がりきってしまうと身の隠しどころのなくなる構造をしていた。 「待ち合わせって、この子と? そっか、学校の生徒さんか」 葵は紫乃の持っていた大きなカンバスケースと絵の具を見て察しをつけたようで、紫乃の目の前にまで移動すると、本当はそれほど違わないはずの身長差なのにやや腰をかがめるようにして「こんにちは」と挨拶をした。苦労人生を積み重ねてきた絵梨子の親友とは思えない、とてもおおらかで無邪気な笑顔の人だった。 「なになに、どうしちゃったの? 絵梨子ったらわざわざ教え子を自宅に呼びつけて『個人授業』? なんかやーらしー」 「ちょっとちょっと。人聞きの悪いこと言わないでよ。とにかく二人とも入って」 実際その通りなんだとはさすがに思わないのだろう、葵はしゃれにならない冗談をさらりと言った。学校などでは平然としている絵梨子もさすがにいきなりのことに心の準備ができていなかったのか、冗談とはわかりながらもかなり動揺して、お茶を煎れるのに一つで済むはずの動作を二度にも三度にもわけてやってしまっていた。葵という人はしかしそんな絵梨子の様子を意に介すふうでもなく、本気で楽しそうに紫乃と対面して座ると、「いくつ?」とか「学校ではどう?」とかいかにも子供を相手にしているような質問をしてきた。 おかしな話、夏休みに入ってからは特に絵梨子と親しくしすぎていたせいで、実際は干支一回り以上も違うという年齢差のことを紫乃はすっかり気にしなくなってしまっていた。絵梨子の同級生だった、ということは同い年だろうこの葵という人の態度は、確かに今の紫乃にはあまり心地のよいものではなかったけれども、不愉快になるというよりもむしろ、本来であればこういう扱いを受けるほ方が「当たり前」なのか、と逆に新しい発見をするような気分だった。 「小学生じゃないんだし、子供扱いしないであげて。その子、すごい頭がいいんだからね」 助け舟を出そうと絵梨子はようよう煎れることができたお茶を運んできた。たしなめされた葵は自分こそ子供のように口を尖らせ、だってさ、と言い訳をする。 「懐かしいじゃない。何か思い出しちゃう。そういえば私達も出会ったのってお互いこの子くらいの年齢だったんだよね」 この子、じゃなくて「紫乃」、と絵梨子は訂正させた。この年頃は特に、自分が「尊重されてない」って感じると傷つくんだからね、と教師らしいことも言う。葵はそれには反抗することなく素直に紫乃に「ごめん」と謝った。 「ところで、気になってたんだけど、その荷物は何? また何か買ってきてくれたわけ?」 「そうそう、忘れる前に渡しておかなきゃ。これね、この前旅行に行ったお土産」 と言って持ってきた紙袋から取り出したのは、袋の店とは直接には関係のない、しかしやっぱり某有名動物キャラクターもののぬいぐるみだった。 取り出された瞬間、がっくりと脱力するように絵梨子は肩を落とした。おそらくはもうこれまでも何度も言ってきたのだろう台詞を、また繰り返し言わせるのか、というふうな表情で口を開きかけたところ、葵は「だってこの部屋は飾り気がなさすぎるんだもの」と悪気のかけらもなさそうに先回りして言った。 何を言っても無駄、ということもまたわかっていたようで、絵梨子はそれ以上の反論を諦めて人形を受け取ると、とってつけたようなお礼を言って部屋の隅の棚に置いた。 「用件はそれだけ?」 「うん。そうなんだけど。あのさ、これから二人で絵を描くんだよね」 「それが?」 「私も少し見学をしてていい? 絶対に邪魔はしないから」 多分それは無理なのだけども、さりとて追い出さなければならない理由というものもない。絵梨子はかなりばつが悪そうに頭を掻きながら紫乃の顔を見た。「いい?」と尋ねられて紫乃がうなずくと、葵一人が上機嫌に「ありがとう」と言って張り切って席を立った。 葵が隣のアトリエの部屋に移動したのを見送ってから、絵梨子は耳打ちするように紫乃に「ごめんね」を言った。紫乃はこの状況が絵梨子のせいではないとは知っていたし、葵が絵梨子の大切な友達であることもよくわかったので、腹が立つとかそういうとは思わなかった。ただ、今日は絵梨子と抱き合うことができないのは残念だった。 「じゃ、前の続きからね。あれから何か手を加えてみたりはした?」 「少しだけ。ちょっと質感が出し切れてないと思うんですけど、どうでしょう」 二人はイーゼルの足を固定させると、大振りなカンバスを並べた。 今紫乃が習いながら描いているのは例の旅行に行った景色を再現する朝の風景で、絵梨子は同じく朝の景色ながら、そちらは建物のの並ぶ街の風景を同時進行させて製作していたところだった。 紫乃はそれとは別に「絵梨子」の顔を自宅でこっそり描いていたりもしたが、何度塗りなおしてもどうしても自分の納得のいくような表情ができず、その存在をひた隠しにしつつ遠回りにテクニックを身に着ける勉強をしていたのだった。 後ろで見ていた葵はその二つを見て、思わず「はぁー」とため息に似た感嘆の声を上げた。「その絵、紫乃ちゃんが描いたの?」と尋ねるので紫乃がうなずくと、もう一度改めて大きく「はぁー」と言った。 そしてしばらくの間、黙ったままの葵の存在をちらちらと気にしつつも二人はいつものように筆を進めた。努めて集中しようとしたせいか知らないがその日の出来栄えは意外によく、数時間して正午が近くなったとき、絵梨子が休憩しようか、と言い出して作業は中断となった。 昼食の相談をすると、いつものように(時々葵がこの部屋に来たときなども同じようにしていたらしい)自炊ということになり、三人で役割分担を決めて作業にかかることになった。 ところが、それを始めてすぐに、絵梨子が香辛料の一つが残り少なくなっていることに気がついた。腹を満たすだけとして作るならなくてもなんてことはないものではあるけれども、こだわりとしてどうしても必要なもの、と絵梨子は言った。 「ちょっとそこのスパイス屋さんまで行ってくる。二人はどうする?」 紫乃と葵は顔を見合わせた。どちらか一人がついていって一人が留守番、というのも少し不自然な感じがした。かといって絵梨子を残してどちらかが買いに出かけることにしても、目指すものをきちんと買って来れる自信はなかった。もう作業にかかりはじめてしまっているし、ここで全員でお出かけ、ということもあまり賢い選択肢ではなかった。 絵梨子は微妙な表情だったが、自分が言い出してしまった手前あとには引けず、結局出かけるのは自分一人で二人は留守番、ということで話はまとまった。 残されて紫乃は、偶然とはいえ今日会ったばかりの葵と肩を並べて野菜を切り、皿を用意することになってしまった。 絵梨子が消えてすぐ、先に口を開いたのは葵だった。 「あのさ、あの絵の景色。もしかして絵梨子と一緒に行ったの?」 紫乃は内心飛び上がる思いでもあったがそこをぐっとこらえ、「そうです、合宿で」と曖昧にかわす返事をした。 ふぅん、と何か思うところがありそうに鼻を鳴らし、葵はしばらく無言で作業を進めた。サラダ用の野菜の用意が先に終わり、盛り付けの段階になって葵は会話を再開する。 「絵梨子の中学時代のこと、教えてあげよっか」 「はい。ぜひ」 「絵梨子ね、すっっっごく絵の上手い生徒だったの。私はそっち方面の才能なんてちっともないんだけれど、絵梨子がすごいのはよくわかってた。でも本人はいっつも『もっとうまくなりたい』って言っててね。学校の勉強もそこそこに本を読んだり美術館に通ったり、向上心の塊みたいだったな」 でも、と葵は言った。紫乃は自然と手が止まってしまっていた。 「学校の先生も、絵梨子の親も、絵梨子がそうして『絵』に打ち込むのをあんまりよくは思ってなかったみたい。特に親なんて『そんな得にもならないことに努力をするくらいなら、英単語の一つでも覚えなさい』って感じだったって。もっとも、父親は一流大学出の上級官庁勤め、母親は旧家のお嬢様ってエリート家庭だったこともあるから、うまくいくはずのない『芸術関係』を女だてらに目指されるのは体面的に喜ばしいことじゃなかったんだろうね」 絵梨子から親について何か聞いたことはある? と聞かれたが、紫乃は首を横に振るしかなかった。 「だから中学校時代は、よくそのことについて相談されたりしたんだ。先生に『絵』について質問をしに言っても、てんで相手にしてもらえない、って。時代のせいか、それとも元々の優しい性格のせいかわからないけれども、絵梨子は結局そんな大人の都合や意見を自分の力だけで跳ね除けることができなくて、3年生になる前には絵に打ち込むのをやめて、いい高校に入るための猛勉強をすることを選んだの。一時は学内成績で100番以上も私とは差がついていたのに、同じ高校に合格されちゃった」 そして高校に入学後、両親に内緒で美術部に入部してこっそりと絵を描き続けていたという。そのときにはもう、誰に何を言われても絶対に美術大学に進むんだ、と決めていたらしい。 先生になりたい、と思って口にするようになったのは、大学に入ってからのことだった。 「一緒に飲んだときとか、『出会いは大切なきっかけだと思う』って熱く語ったりしてたな。もちろんその裏には自分の気持ちを自分一人で信じきれなかったって引け目もあっただろうし。『才能や素質は、自分一人の力だけでどうこうできるものじゃないはず』って。でも両親への反発からわざわざ両親の顔が利く地元や組織の採用試験は受けなくてね。運も悪くて新卒での採用は叶わなかったってわけ。…ねぇ、今絵梨子は学校ですごく楽しそうでしょう?」 はい、と何を隠すこともなく紫乃は言った。実際その通りだった。やっぱりね、と葵は言う。 「絵梨子が紫乃ちゃんを特別扱いしたがる気持ちもわかる気がする。自分が中学時代にしたくてもしてもらえなかったことを全部かわりにあなたにやってあげたいような、そんな感じなんじゃないかな」 紫乃は複雑な気分だった。今更ながら中学生という自分と絵梨子との「積み重ねてきた気持ち」の重さの決定的な差を思い知らされる気がした。 「それでねぇ…あのさ。気を悪くしないでもらいたいんだけど、いいかな?」 そこまで話した葵が改めて紫乃の顔を覗きこんだ。前髪にちょっと触れ、後ろを向かせて肩をぽんと叩くようにした。 「失礼を承知で言うね。紫乃ちゃん、中学校時代の私によく似てる」 「え?」 「うーん。髪型かな? それとも雰囲気? 性格まではなんとも言えないけれども、なんだろう。今朝初めてあなたと会った時、『あれ?』って思ったくらい」 今言ったこと内緒にして、あとで絵梨子から卒業アルバムとか見せてもらうのもいいんじゃない? と葵は言った。 やがて絵梨子が買い物を終えて戻ってきた。話に夢中になっていたせいでやや火を通すタイミングを失敗してしまった料理を見て、絵梨子は葵に猛抗議をした。葵はそれを慣れたふうに飄々と受け流している。 紫乃はその様子を見て、この二人の関係についてうすうす感じてきたことが、真実味を帯びて形になっていくような、そんな気がしていた。 |