パープル・タウン
----- その12 -----
  じっとしてるのも苦痛なような長い一週間が過ぎて、待ちに待った土曜日の朝、紫乃は絵の具の詰まった木箱を持って、絵梨子の家へと急いだ。
 あまりにも早すぎて玄関で出迎えた絵梨子に「まだ掃除が終わってないよ」と言われてしまったほどで、部屋に上がってみるとキッチンの窓は開いたままで、コンセントのつながった掃除機が中途半端な位置に放置されていた。
 もうすぐ終わるからちょっとだけ待っていてね、と言われ台所から寝室へ通されると、そちらはもう済んだのかすっかり整然とされていた。メイキングされたてのベッドに乗るのも少しはばかられたので、紫乃はカーペット敷きのフローリングに直接腰を下ろすことにした。
 隣の部屋からの掃除機のモーター音を聞きながら、紫乃は低い視線から見上げるようにしてぐるりと部屋を見回した。光のある中で始めて観察すると、おおむねの雰囲気はキッチンスペースと同じ落ち着いた基調でまとめられているのがわかる。しばらくはマガジンラックの中身やDVDのタイトルなどを物色しながら時間を潰していたが、そこでふと、部屋の隅にまた意外なものがあることに気がついた。
 手にとってみるとそれは、手触りの良いことで紫乃たちのクラスでも流行している、市販の某動物キャラクターのぬいぐるみだった。
 腕まくりした袖を引き下ろしながら絵梨子が戻ってきたので紫乃がそのことを話題に出すと、「ああ、それね」と絵梨子は言ってキッチンの小窓にかかっているカーテンを指差した。”同じ人が持ってきた”という意味だった。
「つい昨日の夜にわざわざ届けに来てくれたの。いい友達なんだけど、個性とセンスの違いっていうのは埋めがたいよね」
 言って絵梨子はぬいぐるみを紫乃から取ると棚の上に置きなおした。
 紫乃がなんとなく黙ったままうつむいていると、絵梨子は逆に楽しそうにその人形の棚から一枚の封筒を取り出してきた。「見て」と膝を寄せるように手渡され、便箋を開くとそこにはある有名な美術協会のロゴが印刷されていた。
「『新風賞受賞のお知らせ』…って。すごい! 先生の描いた絵が?」
 おめでとうございます、と紫乃が言うと、絵梨子は素直じゃなく「一度くらいは賞でもとっておいたほうが、美術教師としてハクがつくと思ってね」とうそぶいた。その上で先ほどの人形はそのお祝いのプレゼントなの、と説明され、紫乃は納得した。
「でもすごい。先生、学校で仕事もしてるのに。いつどうやって描いたんですか? 図柄は? 何をモチーフにしたんですか?」
 興奮気味に矢継ぎ早に質問する紫乃に、「見たい?」と絵梨子はもったいぶるようにワンテンポおいた。紫乃がうなずいたのを見ると手を引いて立ち上がり、すぐ隣の間へと続く横引きの戸の前へ進んだ。
「受賞した作品は残念だけど今手元にはないんだ。でも、構想段階で荒描きしたものとか、それ以外のものは数点あるから」
 絵梨子は颯爽とその戸を開いた。開かれた瞬間、独特の匂いが紫乃の鼻をついてきた。一面にフローリングカーペットを敷いた空間の壁には大小さまざまなサイズのカンバスがある。棚には外国語の印字された油や薬品の瓶。腰ほどの高さのテーブルの上には使いかけの絵の具とパレットがあり、その隣には大きな垂直型の室内用イーゼルが置かれている。
「狭苦しいところだけどね、ここが一応私の専用アトリエってわけ」
 紫乃は圧倒され、しばらくそこに立ち尽くしていた。絵梨子に背中を押されてやっと中へ一歩踏み出したが、入ってからもなお、そこに漂う「個人的な空間」の感触に緊張をし続けていた。受賞作の下絵をはじめ、いくつかの絵梨子の作品も見せてもらった。全体的な作調としては暖かな光の屈折を描いた、穏やかな雰囲気の室内画が多かった。
 作品の一つをイーゼルの上に乗せ、紫乃は絵梨子が創作時に座っているだろう椅子に座ってじっと見つめてみた。水彩画とは違う立体的な筆の軌跡や明確な色の対比がそこにはあり、その中には更に作者である絵梨子自身の独創性や工夫がある。既に乾いていることを確認してから指をその面の上に乗せてなぞると、不思議に実際に描いている途中だっただろう絵梨子の集中が伝わってくるようにも感じた。
 決して視力が悪いわけではない紫乃が数センチほどの距離まで顔を寄せ、ごく細かい部分の色まで観察しようと絵を凝視していると、絵梨子は急に照れたようにイーゼルの上の絵を取って下ろした。
「そんなにじっと見ないでよ。なんだか恥ずかしくなってくるから」
 言われた紫乃は最初その「照れ」の内容がよくわからなかったが、とにかくまだ観察中だった絵を奪われたことに反抗して、絵梨子が手に持つ絵ににじり寄って行った。
 逃げる、追うを遊びのように繰り返して、ついに絵梨子が縦置きに足元から置いたところで紫乃がひざまずくように見る形に落ち着くと、絵梨子は諦めて自分の腰やや下ほどの位置で絵を支えたまま見られるに任せてじっとしていた。
「『絵』の練習から先にしたい?」
 紫乃がその絵の中にぽつりと飛び出した絵の具の盛り上がる一点に指先を触れさせたところで絵梨子が言った。紫乃は絵梨子の顔を見上げながらその点においた指を止めた。十分に時間が経っているとはいえその点は弾力があり、指の腹の感触には柔らかく心地の良いものだった。
 紫乃は絵に指を置いたまま絵梨子を見上げ、首を小さく横に振った。
「絵梨子さんが、やりたいようにしてください」
「じゃあ、絵はまたあとで」
 絵梨子は身体を畳むようにして紫乃に顔を近づけた。紫乃は絵に触れていた手を放して、絵梨子の顔へと移動をさせる。唇が重なると、紫乃はわずかに絵に対して持っていた興味を少なくさせた。一度目を終えてからしばらく繰り返し妄想をしてきた末でする「二度目」は、前回よりもじっくりと時間をかけ、艶っぽい空気の中ですることができるようなものになっていた。
「紫乃も、そろそろちゃんとした『作品』として一枚を仕上げたくなってきた頃なんじゃない?」
 結局乱してしまったベッドに並びながら、絵梨子は紫乃の身体に指を置いてそう言った。紫乃は考え込むような表情を見せてから絵梨子の顔に向き直って言った。
「描きたい、って思っている題材はあるんです。でも…」
「でも? 何?」
 紫乃は身体を起こすと天井を向いた絵梨子の胸の上に頭を落とした。胸元から相手の顔を見上げるようにして、しばらく様子を窺って言った。
「絵梨子さんが、それを許してくれるかどうか」
 それだけを言うと紫乃は口を閉ざした。絵梨子はわけがわからないというふうで、詳しい説明を求めたが紫乃は頑としたまま口を割ろうとしなかった。
「完成したら見せます。だからそれまで、技術とか技法とか、そういうものの指導をお願いします」
 ここにきて紫乃に隠し事のようなものをされることが絵梨子には正直意外だったが、そのときは無理に聞き出そうとはせずただ了解の返事を返した。
 まだ午前中の光を浴びながら、紫乃は絵梨子の体温を感じて目を閉じた。じっと耳を澄ましていると、静かな空間に相手の身体の中を流れるものの音だけが聞こえるような、そんな感じがしていた。
 そんなふうにして誘われること数回、お互いの体調と都合の許す時期を見て二人は会い続けた。
 季節は過ぎ、中間テストが終わり、制服が夏物へと移行し梅雨が明け、期末のテストとともにじわじわと暑い夏が近づきつつあることを感じられるようになった。
 高校一年生になり紫乃とは通う学校を別にするようになった由果理だったが、休日ごとに外出をするようになった紫乃について両親にはない違和感を感じていたのも彼女だった。
 とある両親のいないいつもの夕方、夕食を終えたところで由果理はソファーでテレビを見る紫乃の隣にわざと腰掛けた。
「あのさ、紫乃。ちょっと聞きたいことがあるんだけど。いい?」
「どうしたの。急に」
 膝を抱えた姿勢のまま冗談ぽく受け答えた紫乃だったが、そこで見た姉の横顔の真剣さに、一瞬ひるんで身体を引きかけた。
 由果理はテレビのボリュームをリモコンで絞りながら言葉を選ぶように慎重に言った。
「紫乃は、もしかして『瓜生先生』とすごく仲が良くなってる?」
 いきなりのことにぎょっとして内心で動揺したが、紫乃は慌ててそれを表に出さないように「なんで?」と聞き返す態度を作った。由果理はどう切り出したものか、とひどく悩んでいるようで口調はひどく重かった。
「この前の日曜日なんだけど。紫乃、『友達の家に行く』って言っていつものように朝出かけたよね。私は部活だったからその少し後に家を出たんだけど」
 うん、と紫乃は言う。膝を抱えた手のひらがいきなり汗ばむのがわかった。
「私も少し友達と遊んでるうちに遅くなってさ。駅に着いたのが6時過ぎだったんだよね。そうしたら、駅前の駐車プールに、ほら」
 言わずもがな、で由果理は黙り込んだ。紫乃も言葉にされるまでもなく、そのことは身に覚えがあった。いつものように先生の家に行き、たっぷりと時間を過ごし、そのあとで駅前まで車で送ってもらったのだった。しばらく同じパターンを繰り返すうち、「大丈夫だろう」という油断が出始めていたというのも確かなことだった。
「でさ。見間違いだったかもしれないんだけど。その、」と由果理は一度言葉を切る。「その車の中で、紫乃、先生とキスとかしてなかった?」
 ごまかしきれない、と紫乃は思った。由果理の話では、そこにいた車がかつて中学校の職員用駐車場でみかけた先生のものだったのでつい興味を持って近づいてみたところ、偶然中にいた人の様子が見えてしまった、ということだった。
 紫乃は小さく息を吐くようにして、覚悟を決めた。
「本当だったら、どうする? 由果理」
「それじゃ、本当に?」
 紫乃は「絶対にお母さんには言わないで」と約束を取り付けた上で由果理に自分のことを丁寧に話した。
 先生が自分を騙すとか悪戯するとかそういう目的で付き合っているわけではないこと、自分も考えた末に自分なりに結論をつけてそうすることを選んだこと、そして何より、その付き合いが自分の「創作活動」にはこれ以上もないほどよい方向に進ませてくれていること。
 由果理は途中変な意見を挟もうとすることなく、じっとその話が終わるのを待った。最後まで聞いて、そしてやっぱりため息をついた。
「『好き』とか、そういう衝動的な気持ちについてまで云々言う気はないんだけど。…でも、やっぱり難しいと思うよ。そういうのって。だって、隠したままでいなきゃいけない、ってお互い負担でしょ?」
 由果理の意見に紫乃も首を縦に振った。実は、誰かに話してしまいたい、という気持ちはかなり前から紫乃の中にはあった。そして、「手助けしてほしい」ということも。
「由果理。ここまで聞いたついで、っていうのも変かもしれないんだけど」
「うん…。待った、何か嫌な予感がする」
 由果理の静止にもおかまいなく、紫乃は由果理の手を掴んでじっと懇願のまなざしを投げかけた。
「早ければすぐ、できたら夏休み中にでも。なんとか私が先生と一泊できるような状況を作ってもらえないかな」
 紫乃はずっと思っていた。
 先生が「素晴らしい」と言っていた「紫の朝」を、どうしても一緒に見てみたいと。そのためには、なんとかして先生の部屋なりほかのところでも、一夜を明かせるような状況が必要だった。
 由果理は心底困ったふうに首を大きく横に振った。
「そんなこと。私に言われても困るよ。大体、そんな付き合い方、私だって認められるわけじゃないし」
 そういいながらも由果理の表情は微妙だった。
 紫乃は、もし絵梨子との関係を誰かにばらさなければならないときが来たとしても、その最初の相手はやっぱり由果理にしたい、と思っていた。由果理なら、きっと自分の気持ちや希望を汲み取って、最善の方法を考えてくれるはず、と固く信じていたからだった。
 数日後、由果理は紫乃の部屋に行き、一枚のチラシのようなものを差し出した。




< ←前へ >< 次へ→ >


topへ戻る