パープル・タウン
----- その11 -----
 じわじわと音もなく降り積もるかのように下りてくる寒気に、眠っていた紫乃は目を覚ました。
 はみ出していた肩を布団に入れなおし、横になったままサイドテーブルの上のデジタル時計を見ると、4時05分と表示されていた。
 朝方? と一瞬は思ったが、窓を覆う遮光カーテンの隙間からわずかに漏れ出ている外の光を見つけ、その橙色がかった光線の色をしていることから本当は夕方であるとわかった。紫乃は安心して横向きに寝ていた体を逆向きに転がす寝返りをうった。
 紫乃と同じ方向に身体を横向けて並び、まだ眠っている絵梨子の顔が変えた体勢の先にあった。紫乃が身に付けているのは借りたTシャツ一枚に下着だけで、眠る前に浴びたシャワーのため、頭をずらした拍子に香った自分髪の匂いは、真横にいるその人と同じものだった。
 腰をひねったとき腿の付け根にきしむような痛みが走ったが、そんなことより紫乃は間近に向かい合う相手の顔を見ていたかった。暗がりの中ではあったが、触れるほど近くで見る絵梨子の化粧のない素顔は、とてもきれいだと思った。こっそりと髪をいじって分けると、普段学校で見かける時は気づかなかった額の横にある小さなホクロとか、大きくて厚い耳たぶの形とか、些細ながら新しい発見をいくつかすることができた。紫乃は一人、幸せな気分に浸っていた。
 幾分かして、ようやく絵梨子がくすぐったそうに目を覚ました。紫乃は悪戯っぽく笑うと、ちょっとだけ体を浮かせてその頬にキスをした。
 照れたように絵梨子は笑うと、まだ目が覚めきらないようで自分の枕に顔を埋め直した。
「今何時ころ?」
「4時半…になるところです」
「うそ。朝の?」
 絵梨子が自分と同じ勘違いをしかけたことが紫乃には楽しかった。違いますよ、と自分が持っていた時計を手渡すと、確かに隅に小さく「pm」と表示されている。絵梨子はそれを見ると「なぁんだ」、と、ほっとしつつもなぜか残念そうにも聞こえる声で、再びベッドに倒れこんだ。
 うつぶせになる絵梨子とは逆に紫乃は脇に座る形に身体を起こし、絵梨子の背中にそっと手を置いてみた。自分と同じく薄いシャツ一枚だけの肌が、静かに呼吸に合わせて上下しているのを感じた。
「朝の方が良かったんですか?」
「ううん。だって紫乃は遅くなっちゃいけないし。もちろん夕方でよかったよ。ただ、そういうのとは別に『朝でもよかったのに』、って少しだけ思ったの。私はね、『夜明け前』の時間帯が昔から好きなんだ」
 どうして? と紫乃は尋ねた。別れる時間を匂わせる言葉を聞いてしまった紫乃は、寂しい気分を紛らわそうと絵梨子の背中の手をゆっくりとさすらせた。絵梨子はそうされてとても気持ちよさそうに目を閉じると、手を自分の顔の下に組んだ。
「ずっとずっと昔のことなんだけど。夜明けの色を『紫』って表現した詞の歌が流行っててね」
 紫乃はすぐにその「歌」が前に一緒に出かけた時にラジオから流れていた曲であることに気づき、そう尋ねると絵梨子は「よく覚えてるね」と紫乃の記憶力のよさを褒めた。
「それが流行ってたときは私はまだ全然子供だったからさ、『夜明け』が『紫』って言われてもピンと来なかったんだ。だってその時間まで起きてることもなかったし。偶然早起きしたことはあっても、そんな夜明け前の景色なんて気にも留めようとしてこなかったわけ。紫乃は、見たことある?」
 そう言われて、紫乃は自分もその時間にある『紫』は意識して記憶に残すほど気にしてはこなかったことに気がついた。
「一度気になったらとことん気にしちゃうような子供だったからさ、それから毎日その時間に間に合うように早起きをしてみたの。よく覚えてる。何日かは雨が続いたり曇りだったりでうまくいかなくてね。それが、何日目かしてようやくその場面を見ることができて」
 絵梨子は組んでいた手をほどいて頬杖をついた。遠い目をした先には、その場面が絵梨子にだけ見えているようでもあった。
「それ以来、ずっと私はその『紫』色が好きなの。あの色に包まれるときだけ、いつもと同じ街がまるで全然違う場所みたいに見えるから。青が藍色になって紫に変わって、そこから白色の光が差していくって瞬間。ほんの短い間にしか見られない、貴重な『美しさ』だと思う」
 そこまで言って、絵梨子は「ちょっと乙女だった?」と照れ笑いした。紫乃は合わせて笑ったけれども、内心では絵梨子のことを本気でうらやましく思っていた。
「私も、見てみたいです。その『紫』色」
「うん。見たことがないなら、一度くらいは見ようとしてみてもいいはず」
 先生と一緒に、と紫乃は言いたかったけれども、なんとなく言いそびれてしまった。絵梨子はさて、とそこで話を切り、思い切りをつけるようにベッドから身体を起こした。
「暗くなる前に送るよ。あ、お腹減ってる?」
 そういえば、夢中でお昼のご飯をすっかり忘れてしまっていた。紫乃は聞かれて急に空腹感を思い出したようで、恥ずかしそうに「はい」と返事をした。
「どこかに食べに…ってわけにはいかないか。腰痛いでしょ? 何か簡単なものを作るからゆっくり身支度してて」
 あまりにもあっさりと言われてしまったが、その痛みの原因はそもそも、やり慣れない開脚という無理な姿勢をしばらく続けてしまったからに他ならなかった。ますます恥ずかしくなって紫乃が枕を抱くようにして顔を隠すと、引き返してきた絵梨子が耳元で「私も経験があるからわかるよ」と朗らかに言って頭を撫でた。
 出来上がったリゾットを向かい合って食べながら、紫乃はふと並んだ扉の数を見て、この空間に入って唯一まだ入っていない場所があることに気がついた。既に入ったのはダイニングキッチン・寝室兼居間・バス・トイレ。残っているのはあと一部屋だった。
 普通であれば2DKの間取りでは「寝室」と「居間」を分けて配置をするはずのように思えるが、さきほどまで眠っていた一部屋にはやや手狭と思えるくらいの配置でテレビやオーディオ類、本棚にベッドが入れられている。
 とすると、残りの一部屋には何が入っているんだろうか? と紫乃は素朴な疑問を持った。
 紫乃の視線に気づいたのか、絵梨子はおもしろそうに「あの部屋に入ってみたい?」と尋ねてきた。紫乃は少し迷ってからうなずいたが、絵梨子はその返事を見てすぐ「でもね、今日はダメ」と跳ね返した。
「あそこは、今度来たときのお楽しみ。て、ことでどう?」
 紫乃の一方的な感想かもしれないが、なんとなく二人で抱き合い、そして目が覚めてからは、絵梨子との距離感は変わったように思えた。とてもとても、気持ちそのものが近くなったような気がして、紫乃はそんな絵梨子の子供っぽい台詞が嬉しかった。
「また、ここに来てもいいんですか?」
「来ないつもりだった?」
 紫乃は首を横に振った。絵梨子は楽しそうに紫乃の口元を指先でなぞった。
 食事が終わる頃、絵梨子はテーブルに置きっぱなしになっていた画材と絵の具を引き寄せて言った。
「休みがあけたら、部活に持っておいで。詳しいことはそのときに教えてあげる」
「そうします。これから、よろしくお願いします」
 食事が終わり、紫乃は食器の洗い物を言い出したかったが、絵梨子はそれをさせようとはしなかった。それも今度、と言って笑った。
 夜になる前に紫乃は二度目の絵梨子の車に乗せてもらい、つけたラジオから今流行っている曲を聴いた。その日はだけども、そんな曲よりももっと古臭い、あの歌が聴きたいと思った。
 駅で降ろしてもらい、少し歩いて家に着いて両親や姉の声を聞いたとき、紫乃は何か長い夢から覚めたような、不思議な興ざめを感じていた。朝この玄関を出るまではここにこうしていることが「普通」のことであったはずなのに、今はその逆に思っている。踏み出す一歩が今にもグラリと傾きそうな、奇妙な現実感のなさがあった。
 7時前に着いた家ではちょうど夕食の支度をしていたところだったが、紫乃は適当な理由をつけてそれを断ると、逃げるように自室に入った。電気をつけずに布団にもぐりこんで自分の膝を抱えるように丸くなると、先ほどまでいた部屋の残り香がそこからは感じることができた。
 はっきりと表現するのは難しいけれども、紫乃はそのとき、自分の中の見えない何かが決定的に変わってしまったのを実感していた。一人の部屋で耳を澄ますと、自分の心臓の音が聞こえてくるような気がする。ここで目を開いて、もし自分の身体が宙に浮いているような場面を見たとしても、今ならきっと驚かないだろうな、と紫乃は思った。
 そうして数日が経ち、短い春休みは終わると始業式が待っていた。由果理の入学式は更にその少し前にあった。
 晴れて2年生となった紫乃はさっそくその午後から、もらった油絵のセットを広げ、白いボードの上で色彩の感じを確認しながら塗ってみた。まずは適当な習作や模写からの作業だったが、それをしながらも一番最初に描く絵は何にしようかと、ずっとずっと考えていた。
 瓜生先生は相変わらず学校では”かぶりもの”をしたかのように平然としていて、新しく見学に来た一年生などにも親切に対応をしていたりした。
 新入部員を含めて部員十数人が静まり返ってそれぞれの作品に集中しているとき、絵梨子はそっと紫乃の背後にやってきて、試し描きをしていた桃とブドウの絵を覗き込んだ。
「うまくなってきたじゃない。そろそろ次のステップに進んでもよさそうだね」
 他の部員達はポスター画や水彩に取り組む人ばかりで、油絵の紫乃は集団から少し外れた位置にいた。
「次の週末、空いてる?」
 絵梨子は紫乃から筆をとると、採点をするようにその果実に色彩を加えていった。そのアドバイスの間にさらりと挟みこむように、絵梨子は紫乃にその質問を投げかけた。
 紫乃は驚きながらもなるべく周囲に不審に思われないように、と顔を引き締め、「大丈夫です」と小声でつぶやいた。



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