パレットナイフ
----- その10 -----
 紫乃は長かった話を一旦切ると、そこで黙り込んでしまった。
 流里はしばらく待ってみたが、それっきり口を閉じてしまった紫乃に痺れ を切らして肘を乗り出した。
「それで、どうなったんですか? 結局紫乃さんはイタリアへ行ったわけで しょう? どうやって瑠璃さんを納得させたんですか?」
 話の最初のあたりで、「るり」という同音異字の話は聞いたのだけれど、 自分で口に出すとなんとなく恥ずかしいような気になる。紫乃が直接説明を してくれたわけではないのだけれども、流里はその同音というところがこの 話を自分にしようとしてくれた大きな要素ではあるだろうことはわかった。
 お互い仕事を抜け出すようにしてやって来たこの個人のアトリエで、今二 人の目の前には13号ほどの大きさのカンヴァスがある。
 ただし、それは話をはじめる前に紫乃が持ってきたものではあるけれども、 それっきり二人の間に立てかけられたまま指一つ触れるわけもなしに置かれ ているだけだ。
 幻の油画を鑑賞に来た流里にとってはやはり、気になる。まるで、お預け をされたままじらされているかのようでもある。話が終われば、と思って待 っていたのに、そこで止められるというのは更に追い討ちをかけられるよう なもの。
 流里が乗せていたテーブルの上の肘を紫乃の方へと乗り出して急かすよう に「それで?」と繰り返すと、紫乃は小さく首を横に振った。
「おもしろい話を、期待しないでくださいね。ハッピーエンドとか」
「ええ、まぁ…」
 ここまでの流れで来たら、とも思う。そこから御伽噺のように大逆転でみ んな幸せというラストになるとは、なかなか想像できないし。流里はそれで も控えめにあいまいな返事をした。
 紫乃は言う。
「先に言い訳をしておきたいんですけれども。」一度台詞を切る。
「私は本当に、彼女のことをからかったり、貶めたり。他、どうにかして彼 女の足を引っ張るようなことをしたくて近づいたわけじゃないんです。誓っ て」
 流里はうなずいた。普通に考えても、そこまでするってのは並大抵なこと じゃない。そうでなくても、紫乃は誰かの足を引っ張らなければならないよ うな、か弱い実力の持ち主ではない。
「だけど、今こうして時間をおいて考えてみると。自分でも少し迷うんです。 もしかしたら、私は彼女を妬んでたんじゃないか、とか。自分でそうだとは 自覚していなかったにしろ、心のどこかではどんどん実力を伸ばしてゆく気 がした彼女に対して、本当に祝福だけを考えていたか、ってこと」
 流里はそれにもあいまいにうなずいた。
 それは、だけど多分この先どれほど時間をおいたところでわかることじゃ ないだろう。紫乃自身でも。
「それじゃ、お待たせして悪かったです。そろそろ、これを」
 と、紫乃はカバーのかかったカンヴァスを指した。流里は思わずぐっと生 唾を飲み込んだ。
「今まで人目につくところに出そうとしなかったのはわけがあるんです。」
 紫乃はカバーの止め具を開き、蓋の部分に手をかけた。
「この作品は、私の完全なオリジナルというわけではないんで」
 先ほどまでの長い長い焦らしから一転。一気に蓋を引き上げられ、カンヴ ァスが突如として露に流里の目の前にさらされた。眩しいほど白く、言葉を 忘れてしまいそうなほど、美しい曲線が飛び込んだ。



「どうして、そっとしておいてくれなかったの?」
 瑠璃は吐き出すように言った。紫乃は恐々とスケッチブックの残骸を近く のテーブルに置く。逃げ出してしまいたいような殺気も、その言葉に含まれ ているのも肌で感じた。
「どうして私に声をかけたりしたわけ? 紫乃にとって、私をかまわなきゃ いけないような理由が何かあったの?」
 ばかばかしい、と瑠璃は小さく付け足した。紫乃は律儀にそう言われて自 分が最初に瑠璃に興味を持った瞬間のことを思い出そうとしてみた。
 誰より素晴らしく純粋なものを持っていて、誰にもその場所に踏み込ませ ないように高い壁を作り続けていた人。絵と、自分自身以外には興味を持た ず、ただ一つの場所だけを深く深く掘り続けていたような人。
 その「狭くて深い穴」を、どうにか「広くもあって、深い穴」に変えよう と自分はしたんだろうか? と思う。
 そうじゃないな、とすぐに自分の中で返答は帰ってくる。そうじゃない。
「好きだったから」
「はぁ?!」
「好きだったから、だと思う。瑠璃のこと。私は…」
 一歩、紫乃が瑠璃へと足を出すと、相手は反射的に後ろに下がった。軽く 手を肩に乗せてみると、警戒したように小さく体を震わせる。抱きしめる直 前にちらりと窺った表情は、悔しいとも嬉しいともつかない不安定な表情を していた。
 瑠璃の強張った身体を引き寄せて抱きしめていると、その不安定さはさら によく伝わって来た。紫乃にとっても、この感染性の強い不安な気持ちはプ ラスではないということ、それもよくわかっていた。
 不愉快、とかではなくて。居たいとか居たくないとかいう気持ちが問題な んじゃなく、お互いで向かい合う場所ではお互い、長くはまっすぐ立ってい ることもできないんだ。
 できるのは、必死にしがみつこうとすることでしかなくて。
 紫乃は、それまでそういう種類の気持ちを知らなかった。そして、その瞬 間知りすぎるくらいにわかった。
「瑠璃はさ、私といて楽しいって思えない?」
 紫乃の質問に、ぎゅっと顔を押し付けるようにうなずく仕草を返す。
「一緒にいること、辛い?」
「…最初は、楽しかった。けど、だんだん。自分でも、どうしてなのかわか らないけれども。怖くて。絵も、紫乃と付き合うようになってからおかしく なっていくみたいで。もうどうしていいか…」
「それって、これから私と居て直せることじゃない?」
 ぎゅ、と肩口を強く握られた。紫乃はとてもその掴まれた場所が痛かった。
 一緒にいたいと思った。だけど、これ以上は一緒には居れない、とも思っ た。
 どちらのせいか、ということで測ればどちらか一方ではなくお互いのせい だろう。お互い以外の誰かや何かのせいにするのもできないことではないけ れども、そうしてしまうとしても、だからといってそれをお互いでどうこう とできる種類のことがらでもない。
 最後の木材にしがみついているようなものだ。もうほとんどが沈んでしま った。これ以上は、無理。
 紫乃は抱きしめた瑠璃の肩の腕の力を緩めて、耳元でゆっくり言った。
「別れようか」
 言った直後胸元近くで微かに金属の擦れる音が聞こえた。同時に、どん、 と強く胸元のあたりを突き飛ばされる。
 背後すぐにあったテーブルがぐらりと揺れて、倒れそうになりながらも 体勢を立て直すと、瑠璃がまっすぐ正面に自分の方を向いていた。
 手を自分の中央付近に組んでいる。瞬間外からの光が跳ね返ったところ を目を細める。目をこらすまでもなく、それは以前にもよく見ていたもの だとわかった。瑠璃にとっても描画に欠かせなかったもの。パレットナイ フの代わりのナイフ。
 笑うように息を吐き出して、それから瑠璃は言った。
「いいよ。いつか紫乃から言い出すだろうとは思ってたしね」
 一向に消えない殺気のようなものに背中が冷たくなりながら、紫乃は無 抵抗を示すように手を肩ほどの高さに挙げる。
「瑠璃。落ち着いて」
「こう言いたいんでしょ? 何もかも『間違い』だった、って。お互いも うやり直すとかって気力もないし、傷つくばっかりたもんね」
 瑠璃は言う。
「紫乃にとってはそれでいいんだろうけど。けど、だからってここですん なり別れるなんて、公平じゃないような気がしない?」
「…」
 瑠璃は声にならない掠れた笑いをこぼした。目は笑っていない。紫乃は、 突き飛ばされた瞬間はその危険な行動に出た瑠璃のことをどうにかして抑 えようと思った。でも、今じっと話を聞いている間に、妙な具合だけれど も、自分のその心は変わって来ている。
 今自分の前にいる瑠璃は、ほんの少し出会った頃の瑠璃に似ていたから だ。あの頃の、自分の周囲全てに苛立つような激しさに似ているものを感 じた。
「私は、紫乃に会ってたくさんのものをなくした。もう取り戻せないもの をね」
 それが何であるかなんて聞き返すまでもない。
「だから、せめて関係を終わりにするんなら、それと同じくらいのものを、 紫乃にもなくしてもらいたいと思う」
 そう言うと瑠璃は持っていた刃先を、紫乃の肩ほどの高さに上げた手の 片方に向け、少し間をおいて次にその手とは反対側の胴体に向けた。
「右手か、命か」
 ナイフそのものよりも、瑠璃の睨んだ瞳の方が鋭く光っていた。逃げる という選択肢も、当然あってもよかったはずだった。それ以外にも、時間 をかけて相手を説き伏せるとか。
 言いなりになることは、瑠璃側の理屈では「公平」でも、紫乃(や、そ の他多分関係ない第三者)にとっては「公平」なんかじゃない。
 紫乃はしばらく黙って瑠璃の真意を窺うように見つめていた。軽く震え ているようでもある刃先が気を変えないかと少しも期待していなかったか と嘘になる。どれくらい経ったかわからないくらいになって、紫乃は諦め てを閉じた。
 この先、生きていくとしたら絵を描きたいと思った。そう思った瞬間に はもう気持ちは固まっていた。
 掲げていた両腕をゆっくりと左右に大きく広げた瞬間、瞼の奥に稲妻の ような亀裂が走ったのが見えた。

 ついさっき、瑠璃は自分に刃先を向けた瞬間に昔の雰囲気を取り戻した ようにも感じたが、それは間違いだったかな、と紫乃は思った。
 なぜなら、昔、出会ったときの瑠璃には、自分を…人を切るなんてこと は、できなかったはずだったから。
 薄く目を開いてみると斜めになった床の上の瑠璃の裸足に赤い色が近づ いていくのが見えた。それは自分の身体が波打つたびに、少しずつ範囲を 広げていっている。 服についたりしたら、きっと簡単には取れなくなる よ。後で考えれば些細なことではあったけれども、その瞬間にはどうして もそれが気になって、紫乃はしびれるような全身の力を振り絞って、だら りとしていた腕を前に持ち上げようとした。
 が、その手が届く直前、紫乃の目の前にはごとんとナイフが落ちてきた。
あわや左手を貫くかという場所だった。
 ナイフの向こう、瑠璃の足は紫乃から遠ざかった。数歩下がり、部屋の 出口の方向へじりじりと下がる。紫乃がそのことに何か言わなければ、と 思ったところで、聞き覚えのある音を頭上に聞く。
「もしもし。桐山…紫乃さんのお身内の方でしょうか? …はい」
 瑠璃の声だった。そういえばさっきまで母と話をしていたんだっけ、と 思い出す。はっきりと何を言っているかはわからなかったが、断片的にど ういう会話をしているかどうかはわかった。
「…それじゃぁ、よろしくお願いします。…いいえ。私は残念ですが、事 情がありましてついていてあげられないので。はい。それでは失礼します」
 受話器を切る音がしたのと、紫乃が気を失うのはほとんど同時だった。

 それから誰に何を言ったかは自分でもよく覚えてはいないのだけれども。
次にはっきりと目を覚ました時、紫乃は病院のベッドの上にいて。
 当然のように瑠璃はそこにはいなかった。
 不器用に縫われた左胸の上は致命傷ではなかったけれども、正気を取り 戻したその夜、それはひどく痛んだ。


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